芸術の中身とは実のところなんやいな。
考えても考えてもその答えは出てこない。
振ってみても叩いてもうんともすんとも云わぬ。
畑から生まれたお野菜と違って腹を満たすことはないし、母から子へ伝わる確かな愛情とも違う。
目の前に突然現れて燃え上がったと思えば、おばけのように姿をくらますこともある。甚だ不安定で信用ならないやつなのだ。
だけれども憎めない。むしろ僕はそれを好ましく思っているくらいだ。
目ん玉が飛び出るほどの値がついている作品もあれば、塵芥のように街の隅に追いやられて吹き溜まりとなっているものもある。
本当にわからない。
そんな信用のおけないものに、いったいどれだけの人々が助けられ、裏切られ、生きて死んでいったのだろう。
芸術は、じろじろじっとりと色んな角度から見られることを嫌ってるんじゃないかしら。そんなの無粋だよと怪訝な表情を浮かべる相手方が思い浮かぶ。
自分なりに苦し紛れにどうにかこうにか、この話を着地させるために、芸術はあらゆる「はざま」を担うものだ。ということにする。
自己と他者、自己と自然、自己と社会、現実と非現実
皮の一歩外へ出た外界と自分の心の内の間にほんのりと空間をつくりだすことができる。
芸術はこのはざまにいる事によって成立するのだと思う。
人間は何事も、距離を幾らかとらないと生きていかれないようで、
人と距離が近すぎると気を揉み疲れ果てる。
自然と近すぎると死を感じる。
社会と近すぎると個の死を感じる
現実が過ぎると、生きていく意味を見失う。
幻想が過ぎると、後に残るのは空虚だ。
これらの間にほどよく入り込むから好ましく思えるのかもしれない。
結局のところ中身はなんやら、わからない。
(距離をつくることが大事なのであって中身はそれほど重要でないように思える)
この文章と同じように、実はがらんどうなのかもしれない。
というかそうであってほしい。と願う。
