完全な球体は存在しないという話を聞いたことがある。理論上は存在するが、現実には存在しえないそうだ。なんでも完全な球体というものは完全な平面に置いた時、その接地面積は0になるらしいのだが、実際には技術的、環境的な要因で完全な球体も完全な平面も実現不可能であるそうで、接地面積が0なんてことはありえないらしい。接地しているのに面積が0とはこれいかに。私がこれまで目にしたビー玉も、野球のボールも、ボウリングの球も、どれも地面にべったりとくっついていた。きっとどれも完全な球体ではなかったのだ。きっとこの世には「完全」なんてものは、あり得ないのだろう。
言うまでもないのだが、世界中どこを見て回っても完全な洗濯機もなければ、完全な車もなく、完全な経済システムもなければ、完全な国家もない。ましてや完全な宗教も完全な芸術もない。「完全」という言葉はまったくありふれた言葉ではあるが、しかし実際はそれ自体が形而上の存在でしかない。ルー・リードの「Perfect Day」だって本当の意味での「完全」な一日ではないのである。
我々には言葉があるから、お互いの気持ちを打ち明けることができるし、言葉によって救われる瞬間だってある。言葉によって学ぶことができるし、言葉によって表現することができる。すると次第に、言葉の中に真実があるように錯覚するようになる。無論、何を真実とするかは人それぞれの問題であるから、他人があれこれ口出しすることではないのだが、だが果たして言葉はどれ程に物事を言い得ているのだろうか。
「木漏れ日」という言葉は日本特有の概念であるそうな。他にも「侘び寂び」なんてのも日本的表現である。一方ポルトガル語には「カフネ」という言葉があるが、これは愛する人の髪に指を通す仕草のことであるらしい。言葉はある種のランドマークであり、目印のようなものでもある。
秋になると皆、思い出したかのように「紅葉」をありがたがり始める。確かに木々の葉が赤や黄色に色づく様は風雅である思いがするし、他の季節にはないもので特別な感じがある。しかしながら初夏の青もみじだって青々と生命力が感じられて他の季節にはまたとないものがあると思われるが、こちらはそれ程に人々の注目を集めない。私はこの季節にも「紅葉」や「もみじ狩り」のような名前が与えられていれば、人々の四季感に影響を与えていたのだろうかと思わずにはいられない。人の心は言葉によって引き寄せられてゆくものなのである。
名前をつけた時点で我々はそれを概念として認識するようになり、実在するかしないかにかかわらずそれを意識するようになる。「一瞬」の対義語として「永遠」という言葉がる。説明するまでもないが、あっという間の刹那に対して、際限なく無限に続く時間を言っているのである。物事の認識としてそれは正しいことである。概念としては誰もが理解することができる。しかしながら我々の命が有限である限り、誰も「永遠」を認知することはできないし、認知した時点でそれは「永遠」ではなくなってしまう。つまるところ永遠なんてものははなから存在しない。「一瞬」という概念に対応するものとしてシステマチックに考えたところに、便宜的に「永遠」という言葉を添えたに過ぎない。人はあらゆるものに名前を持たせ、それによって仔細に伝達することができるようになったわけだが、初夏の青もみじの頃合いには名前がなく、形而上の無限の時の流れには「永遠」と名づけられているところに、どうにも煮え切らない思いがする。
心は言葉が作る概念によって引き寄せられてゆく。そして言葉に捕らえられた心は、それによって不必要にに心を左右される。「永遠」という言葉と同じように、「現在」に対して「過去」と「未来」がある。「現在」はこの瞬間確かに存在しているが、「過去」は過ぎ去ったことで最早存在せず、「未来」はいまだ起こりもしていない空想である。どちらも形而上の存在である。にもかかわらず現在をこの過去と未来の三点で結びつけてしまい、過去を顧みないものは浅はかであるとか、薄情であるとされ、未来を見据えないものは怠惰、盲目とされる。その結果人は現在よりも寧ろ「過去」と「未来」に意識を強く持つようになり、肝心の「現在」が疎かになってしまう。皆過ぎた過去を思って羞恥の念を抱えたり、ありもしない未来を思って不安になる。それが悪いことであると言いきるつもりはないが、言葉によって作られた有りもしないものによって不安や憂鬱になるよりも、確かに存在している今に意識を据えることに生命の力があるのである。
認識できる言葉に心や意識が引っ張られるということは即ち感情もまた同じように、心が揺れ動いた際に無意識にその気持ちを「喜怒哀楽」という源泉の中に落とし込もうとしてしまう。しかしながら、きっとまだ言葉になっていない感情が我々の中には確かに存在しており、だからこそ胸の内をうまく言葉で表すことのできない瞬間がある。そんな時には無理に既存の言葉に置き換えて白状する必要はない。すべての物事に的確な言葉が存在しているとは限らないのである。
長々と書き連ねたが、私は言葉そのものを否定したいわけではない。言葉とは不完全な人間が作ったものであるから、完全な球体が作ることができないの同じように、言葉もまた完全であるはずがないのである。だからこそ言葉への執着、言葉の持つ先入観への執着から意識を解放することで、もっと心が自由になれるのではないかと考える。

RELEASE
New Mini Album『armadillo』
1 審美眼
2 Wall Flower
3 STARLET
4 VANDALIZE
5 エトランゼ
6 Falling Down
*「armadillo」(初回限定盤A)
品番:VIZL-2104
仕様:CD+Blu-ray
価格:税込¥4,620
*「armadillo」(初回限定盤B)
品番:VIZL-2105
仕様:CD+DVD
価格:税込¥3,960
*「armadillo」ビクターオンラインストア限定盤
初回限定盤A(CD+Blu-ray)+Blu-ray+フォトブック+スリーブケース
品番:NZS-896
価格:税込¥8,580