「やさしさについてコラムを書こうと思ってるんだよね。でも、考えれば考 えるほどわからなくなる。」そう言う私に友人が一冊の本をくれた。タイトルは『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい(大前粟生著)』。その本の中に印象的なシーンがある。
七森は、麦戸ちゃんから近況について尋ねられる。しかし七森は「さいきんは、いろいろあって。」と濁すのみで、自分の身に起きたつらい出来事を吐露しない。それは「自分の身に起きたことを話したら相手もしんどくなってしまうかもしれない」というやさしさに因るものだが、一方で、麦戸ちゃんは「距離を置かずに、なんでも話してほしい。」と、一抹のさびしさを覚える。「いろいろ」について濁すことで相手の負担となるまいとする七森と、「いろいろ」について話してもらうことで相手に寄り添いたいと思う麦戸ちゃんの、まさに「やさしさ」がすれ違う一幕だ。
「やさしさ」って難しくて、こわい、と思ってしまった。相手に向き合い、思考の末に生まれるやさしさ。相手によって受け取り方が変わってしまうやさしさ。「やさしさ」はあたたかいものだと思っていたがそうではなく、ある種の危うさや痛々しさだって含まれているのだ。「やさしさ」はどうもあたたかいだけではない。そのことを、先の一幕は示唆しているのではないか。「やさしさ」って、いったいなんだろう。
わたしにも似たような経験がある。「きみにまでネガティブな気持ちを広げてしまいたくないから」と自身の身に起きていることを話してもらえなかった。話したくないこともあるよねとわたしは黙り、なにも聞かなかった。当時のわたしはそれが「やさしさ」だとおもっていたけど、もしあの時「話してほしい」と伝えていたらどうなってただろうとかんがえる。正解はわからない。
私は、傷ついた時に傷ついた顔ができるひとばかりではないことを知っている。泣いていないから傷ついてないとか、明るい歌しか歌わないから大丈夫だとか、いつも笑ってるから悩みなんてないとか、そんなことはない。繊細ではないと思われているひとにもお風呂で泣く日があるし、人を貶める発言を繰り返すひとも、言葉で「強い自分」を守っているのかもしれない。わたしにはわたしの痛みがあって、あなたにもあなたの痛みがある。その形や大きさは違えども。
コントロールできない気持ちや生きていくために背負わされた傷で、この世界は溢れている。それらすべての痛みに気づくことはできないけれど、そのことはわかる。だからわたしはやさしい歌を歌いたい。やさしくてあたたかくて安心できる ものに触れていると、心が大きな流れに呑みこまれないで済むから。「やさし さ」はひととの関係によってしか生まれない。そうはいうものの、他者と関係 することはとても疲れる。傷つくのも確かだ。ひとと関わらなければあんなかなしい気持ちにならなかった。けれど、こんなあたたかい気持ちにもならなかっただろう。
最後に。この本には私宛ての手紙が挟まっていた。開けば友人の字で「少ししんどくなる部分あるので、もししんどくなった時は私でよければ話してください」と記されていた。「やさしさ」の中身がすこしだけわかったような気がした。
